塗装・塗料のコラム

阪神佐藤興産株式会社

2016
3.7

近代塗料の夜明け(その2)

こんにちは!ぬりかえDrの技術顧問、プロッサーKです。
今回は我が国の近代塗料の夜明け(その1)の続きをお話いたします。

 

時代が明治新政府となり西洋諸国が近隣の大国を盛んに植民地化していくことへの危機感から新政府が殖産興業や富国強兵を御旗に政策を急いだこともあって我が国の産業の近代化が文明開化とともに奇跡的に発展しました。塗料も海外からの輸入からやがて自力で国産化に動き出します。
近代塗料の国産化の起源は明治14年に我が国で始めての塗料製造会社である光明社を創立した茂木 春太、重次郎兄弟と、明治18年に日本の日本特許第1号の漆を展色剤としたさび止め塗料を発明した堀田瑞松の功績が挙げられると思います。

 

少し話は長くなりますがその歴史について述べたいと思います。
(日本ペイント百年史より抜粋)

 

 

 

■茂木春太と重次郎

 

 

現在の日本ペイントHD㈱の前進となる光明社を立ち上げた茂木重次郎(もてき じゅうじろう)は大和郡山藩(現在の奈良県大和郡山市)の藩士の家に生まれています。
郡山藩主の柳沢保申は英語教育に熱心で、優秀な藩士の子弟に東京留学を奨励、藩の中でも優秀であった茂木春太、重次郎兄弟は藩の特待生として東京に留学します。兄の春太は明治3年に22歳で上京すると慶応義塾に入塾して英語を学んでいます。春太より10歳若い重次郎も明治7年に15歳の若さで慶応義塾に入塾します。

 

 

その後、春太は現在の東京大学の前進である開成学校に勤めるのですが、そこでは化学の教科書の翻訳の仕事を行い、ロスコー (イギリス)著の物質の化学的な説明書である「レッスンズ インエレメンタリー ケミストリー」の日本語版翻訳書「羅斯珂氏化学」とパーカー(アメリカ)著の化学反応を書いた「新式化学要理」を翻訳して開成学校から出版しています。

 

 

その後、春太は開成学校をやめて、現在のお茶の水女子大学の前進の東京女子師範学校に勤めますが、ここで知り合いの薬屋から「昔から芸者や歌舞伎役者が化粧に用いている鉛白を長期間使用すると皮膚が黒く変色し、貧血、動脈硬化などの害があることから鉛白に代わる無害の白粉(おしろい)を作って欲しい」との相談を受けます。春太は鉛白が毒性のある塩基性炭酸鉛[2PbCO3Pd(OH)2]であり、すでに西洋では化粧への使用は禁止され、毒性のない亜鉛華[酸化亜鉛,ZnO]が使われていることと、亜鉛華の製造方法はそれほど難しくないことも知っていました。春太はすぐに知り合い数名で開発資金を出し合って白粉用亜鉛華製造の組合を作ります。そして開成学校で学び顔料、塗料に興味を抱いていた弟の重次郎に開発を任せ、春太はその指導に当たります。

 

亜鉛華は金属亜鉛を酸化させて製造します。製造方法には硫酸を用いる沈殿法と高熱を加える乾留法があり、この時は設備投資が少なくて済む沈殿法を選択して検討を行います。ただし、この方法では不純物を多く含む亜鉛華しか出来ません。色々手を尽くしますが解決には至らず組合は解散してしまいます。
それでも兄弟は諦めずに亜鉛華製造方法の研究を続けました。製法を蒸留法に変更しますが蒸留法は焼成炉が必要であるため、重次郎は炉を作るための耐火煉瓦の粘土探しから製造研究まで、すべて自ら行い苦心を重ねた末に明治12年に高純度の亜鉛華の国産化を成功させました。

 

 

亜鉛華が大蔵省印刷局に大量に納入されることで経営が安定すると、重次郎はかねてからやりたかった近代塗料の固練りペイントの研究を開始します。明治12年頃に製造を成功させ、国内博覧会に亜鉛華とともに出品し優秀な製品であることから褒状を受けています。
当時の固練りペイントの価格は28ポンド(12.7Kg)入りの缶が3円でした。当時は東京品川郊外の土地1坪が2円で買えましたので、いかにペンキが高価であったのが分かります。

 

 

そのころに塗料油を海軍に収めていた田川謙三と、光明丹を製造していた橘清太郎から、塗料製造工場の設立の話を持ち掛けられます。日本海軍もこれからの塗料は国家の重要産業であることを認識していたため、海軍塗工長の中川平吉が立ち上げに全面的支援を行い、明治14年に東京芝区三田に日本で最初の塗料製造会社である「光明社」が設立されます。光明社が最初に手掛けたものは亜鉛華、鉛丹、ボイル油、固練りペイントなどで、顔料からボイル油そして塗料までの一貫した生産工場でした。

 

 

そのころ海軍の水夫の間では、塗装できる状態にまで薄めてあった塗料を塗具(ぬりぐ)と呼んで重宝されましたが、重次郎は西洋からの輸入していた塗具を参考にして同じものを作っています。すでに薄めてあるペイントは比重の重い鉛白が沈降してすぐに使えなくなるのですが、鉛白の沈降防止のため、おそらく比重の低いタルク、炭酸カルシウムなどの体質顔料を併用して沈降を防止させたものと思われます。
また西洋では早くに毒性のある鉛白から無毒性の亜鉛華に代えられていました。鉛白は油の酸化反応の触媒となり乾燥を早める効果がありますが、亜鉛華にはないため、乾燥が早いボイル油や触媒となる金属脂肪酸塩を加えて乾燥を早めた、調合白亜鉛ペイントを開発しています。

 

 

大正に入りさらに重次郎は松脂のソーダー石鹸を油の乳化剤として使用した水性のエマルション塗料の開発に成功しています。この時代にすでにエマルションを発想して塗料が作られていたことに驚かされます。

 

 

最初に茂木春太が鉛白の中毒で困っている女性達を助けるために無毒性の白粉(おしろい)を作ろうと考えた優しさと正義感が、日本ペイント創業の原点となったわけですが、その春太は光明社を創設した年に病気のため33才の若さで他界します。
塗料製造のためには亜鉛華の製造、ボイル油の製造、塗料配合技術の3要素の基礎を作ったのは茂木重次郎の大きな功績で、日本の塗料業界の礎となっています。その後固練りペイントは使われなくなりほとんどが調合ペイントに置き換わり、顔料は亜鉛華を使用した調合白亜鉛ペイントが昭和40年頃まで長きに亘って使われました。

 

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■堀田瑞松

 

堀田瑞松(ほりたずいしょう)は、天保8年但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)に刀鞘(かたなさや)塗師の長男として生まれています。少年時代から塗師として優れた技を持っていたことから16歳の若さで家業を継ぐことになるのですが、刀鞘塗師だけでは満足せず21歳のときに京都に出て唐木細工や彫刻、さらに書道や南画も勉強します。彫刻家、漆工芸家として有名になった42歳の時、東京に工房を移しますがその技術は明治天皇にまで認められ皇室に関係の仕事を多く手掛けるようなります。

 

 

ある時に政府の要人から「鉄製の船の海水による防食の延長ができれば、我が国はもとより世界的に利益につながる」との話を聞き、昔から漆や柿渋が鉄のさびを抑制する力のあることを体で感じていた瑞松は、持って生まれた研究心から漆を展色剤とした船底塗料の開発に取り組み、明治18年に我が国特許の出願第1号となる「錆止塗料及び其の塗り法」の発明を成功させます。塗料は生漆、鉄粉、鉛丹、油煤、柿渋、酒精、生姜、酢から成っていて、生漆が塗膜形成剤となり、アルカリ性顔料の鉛丹、還元作用のある柿渋のタンニンが錆を抑え、そして生姜のフェノールが藻の発生、貝の付着を阻害させる防汚剤として作用しているものと思われます。その頃の鉄船塗料が半年ほどしか持たないときに堀田式塗料では3年もドック入りが延長されることから海軍が高く評価して正式に採用されています。

 

 

さらに瑞松は69才の時に渡米し堀田式塗料の売り込みに6年間も奔走し、これも日本人が最初となる米国特許を2件も取得しました。その後堀田瑞松は大正5年80才で他界しますが、新しい分野に果敢に挑戦した闘志と行動力には関心をさせられます。
その後は原料となる漆の量産化が難しく高価になること、湿度が低いときは乾燥が遅く蒸気での養生が必要で手間がかかることなどから次第に他の塗料に置き換わって行きました。

 

 

 

■当時の塗料会社の起業

日清・日露戦争を経て明治から大正・昭和初期にかけて、塗料需要の増大により塗料製造会社が次々に設立され、それまで輸入品が中心だった塗料のほとんどが国産品に変わっていきます。また、大正3年に第一次世界大戦が始まり供給不足をきっかけに日本の産業界は自給体制の確立に向け飛躍的に発展、塗料業界も新規メーカーが一挙に増えています。

 

 

その時代に設立された塗料会社の歴史をまとめました。


 

明治14年
光明社  東京三田  創業者:茂木重次郎
明治31年に日本ペイント製造株式会社、昭和2年に日本ペイント株式会社に改称

 

明治21年
大阪阿部ペイント製造所  大阪市西区  創業者:阿部市三郎
ドイツから塗料製造の機械一式を購入、昭和4年に鉛紛塗料に買収される

 

明治34年
神戸ボイル油  神戸市灘区  
昭和8年に神東塗料に改称

 

明治34年
エナメルワニス製造  大阪市西成区  創業者:川上安太郎 
明治43年に川上塗料に改称

 

大正6年
中国化学工業  広島市中区 
船底塗料を製造 大正12年に中国塗料に改称

 

大正7年
関西ペイント  尼崎市神崎  創業者:玉水宏
日本ペイントへの入社を経て関西ペイントを創業

 

大正8年  
大阪製錬
昭和24年に東亜ペイント、平成5年にトウペとなる

 

昭和4年
鉛紛塗料  大阪市此花区  創業者:島津源蔵
昭和4年に大阪阿部ペイント製造所を買収、昭和8年に旭ラッカーを吸収し、昭和11年に大日本塗料に改称


 

 

■合成樹脂塗料の誕生

 

19世紀に入ると合成化学が著しく進化して、今までの天然樹脂から人工的につくられる合成樹脂が続々と発明されます。

19世紀始めにアメリカでフェノール樹脂の工業化に成功し、19世紀中頃にはニトロセルロースが発見されました。合成樹脂の塗料の展色剤として最初に使用されたのはフェノール樹脂です。当初はシェラック塗料の代用でしたが、その後に油に溶解するフェノール樹脂が開発され、その性質から電気絶縁塗料、耐薬品性塗料が作られています。
ニトロセルロースはニトロセルロースラッカーとなり、その乾燥の速さから従来の塗料の乾燥の概念を一変させます。

20世紀初頭にはアメリカのデュポン社が自動車用ラッカーを開発します。それにより自動車塗装の量産体制が可能となり、塗装の工業化の幕開けとなります。
同じ時代にニトロセルロースラッカーに次ぐ塗料の革新となるアルキド樹脂が開発され、近年に継続する多様な合成樹脂の時代を迎えることになりました。

 

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今回のお話はこれくらいにしておこうと思います。
次回は、近代塗料の夜明け(その3) 合成樹脂塗料についてお話しいたします。

 

お楽しみに!