塗装・塗料の専門知識
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2016
1.8近代塗料の夜明け(その1)
こんにちは!阪神佐藤興産の技術顧問、プロフェッサーKです。
今回は我が国の近代塗料の夜明けの時代についてお話をいたしますが、前回のコラム「塗料の歴史」で書ききれなかった「漆喰(しっくい)」と「丹(に)塗り」について追記から始めたいと思います。
■漆喰について
西洋は石の文化、日本は木の文化といわれるように我が国は太古の時代から建築材料に木を用いています。木は主に柱や梁に、壁には土を、間仕切りのふすまや障子には紙を使いました。
土壁は、割り竹を使って木舞(こまい)と呼ばれる格子状の枠に、土と藁を練り合わせた壁土を塗り重ねて仕上げます。室内の保温や蓄冷作用があり、湿度をコントロールする機能を持つので、四季のある我が国にとっては最適な建築材料でした。土だけで仕上げることもありますが、白く美しい仕上がりが得られ、雨水にも強い漆喰が仕上げに使われています。漆喰で有名な建物は何といっても国宝の姫路城です。平成の大修理も無事に終わり、私も長蛇の列に耐えることを覚悟して見に行きましたが、壁だけでは無く屋根瓦の継ぎ目も漆喰で改修されたことで、お城全体が真っ白に輝いて、白鷺城と呼ばれる由来を実感しました。
漆喰の原料は2~3億年前のサンゴや有孔虫などの化石からなる石灰石(炭酸カルシウム・CaCO3)と呼ばれる鉱物です。
石灰石を高温で焼いて炭酸ガスを飛ばして生石灰を作り、加水することで強いアルカリ性の消石灰が出来上がります。さらに、消石灰に繊維材のスサを混ぜ海藻糊で練ったものが漆喰で、海藻を使うのは我が国の独特のものとされています。漆喰の硬化は消石灰が空気にさらされて空気中にある炭酸ガスと反応し元の炭酸カルシウム(CaCO3)に変化して固まります。
漆喰トリヴィア-01
漆喰は化粧仕上げ材なので塗料に分類されそうなのですが、
左官職が施工することなどから建材に分類されています。漆喰トリヴィア-02
漆喰の語源は主成分である消石灰(Ca(OH)2)を唐音読みすることで
シックイと呼ぶようになったようで、漢字の漆喰は当て字です。漆喰トリヴィア-03
古代エジプト時代のピラミッドの内壁に漆喰が使われたのが起源とされています。
飛鳥時代にシルクロードを経て我が国に伝わったとされ
同時代のキトラ古墳や高松塚古墳の壁画の下地材として漆喰が塗られていました。■丹(に)塗りについて
神社などの社殿、鳥居など朱色であざやかに塗られている朱塗りは丹(に)塗りと呼ばれ、6世紀半ば欽明天皇の代に百済からもたらされた仏教とともに我が国に入ってきました。中国では朱は崇高な色であり、丹塗りされた社寺や宮殿は権威の象徴であったと言われています。丹塗りの丹は鉛丹(Pb3O4)のことですが、鉛丹は鮮やかなオレンジ色なので、そこに朱(硫化水銀)を加えて赤味がつけられます。丹と朱で調合した顔料に動物の皮、骨などを煮詰めて作った膠(ゼラチン/コラーゲン)と練り合わせて丹塗り塗料が出来上がります。
丹塗りの鉛丹、硫化水銀は毒性が強く防腐作用に優れるので木を保護して長持ちさせる効果もありました。
現在は神社などの朱色塗りは合成樹脂塗料に取ってかわってきていますが、現在でも著名な神社仏閣では丹塗りの伝統を守っておられます。■近代塗料の夜明け
最初に我が国に洋式塗料が伝わったのは鎖国時代の17世紀前半。唯一開港が許された長崎・出島からでした。オランダから輸入された交易品リストに油性ワニス、酒精ワニスの記録が残っており、それらの塗料が出島に建てられたオランダ屋敷で使われました。その後、本格的に洋式塗料と塗装が入って来るのは江戸末期の1853年。太平の夢を破ってアメリカからペリーが率いる4隻の黒船が来航します。その翌年日米和親条約の調印が横浜応接所にて行われることになり、その調印場所であった本覚寺が洋式塗料で塗られたのが始まりです。この時代の木造船は防水性能を保持させるために木タールを塗り込みました。木タールを塗ると船が黒く見みえることから黒船と呼ばれました。その後、伊豆の戸田村で大型木造船を建造することになり、その時に初めて、松の根を蒸し焼きにして作る木タールの製造方法をロシア人から教えてもらっています。日米修好条約の締結により横浜、神戸など各地に洋館建ての居留地が多く作られましたがその建物には油性塗料のペイントが使われ、ペイント職は当時モダンな職業で元漆塗職人達が競って横浜に集まりペイントの使い方を覚え、洋式塗料は急速に全国に広まります。
西洋ではこの頃にはすでに油性塗料、さび止め塗料は完成の域に近づいていました。■油性ワニス(油性ニス)
ワニスは仮漆と書いたようですが、英語のVarnish(バーニッシュ)が語源となりました。塗料は色をつけるために顔料を配合しますが、ワニスには顔料が含まれず、樹脂と溶剤から成る透明塗料のことです。
油性ワニスは乾性油(下記の植物油参照)と化石樹脂(コハク、コパール)、天然樹脂(ロジン)などと混ぜ合わせ熱を加えて練り合わせたものをテレピン油(マツ科の木から取れる松脂を蒸留して得られる溶剤)で希釈した淡黄色の透明塗料で、主に木材の木目の美しさを引き立たせる美装性と保護のために使われました。上記の天然樹脂ロジンとは松脂からテレピン油を蒸留抽出した後にのこる残留樹脂のことです。
またワニスのワを省略してニスと呼ばれることもあります。余談ですが…
先の太平洋戦争の末期にはすべての物資が不足し石油も枯渇したことから、飛行機を飛ばすためのガソリンの代用としてテレピン油を使ったそうです。当時は大量のマツ科の木を伐採してテレピン油を作りだしたことから、山の木が無くなり沢山のハゲ山が築かれました。僕はまだ生まれていませんが、そこまでして戦争を続けなくてはならなかったことに虚しさを覚えます。■酒精ワニス(酒精ニス)
酒精ワニスはアルコールに溶ける樹脂で、一般的にはセラックのことを指します。セラックは庭の柿の木などによく見られる貝殻虫の仲間でラックカイガラ虫の殻から作ります。殻の樹脂成分をアルコールで抽出し精製して得られる淡褐色の透明樹脂です。古くはエタノールで希釈して家具、木製工芸品などのつや出し塗料として使われていました。セラックは木のヤニを止める効果もあって現在もセラックニスと呼ばれて木部のヤニ止め用シーラーとして使用しています。
セラックはセラック→ラック→ラッカーとなり、その後の大発明となるニトロセルロース塗料の総称のニトロセルロース・ラッカーの語源となっています。■植物油
ここでの油とは植物油のことです。
植物油には種類があり、塗りつけると空気中の酸素と反応して硬化乾燥する油と、硬化しない油があります。前者を乾性油、後者を不乾性油と呼びその中間の油を半乾性油と呼んでいます。
油性塗料には亜麻仁(あまに)油、荏(えの)油、桐油などの乾性油が使われています。
他の油として不乾性油のオリーブ油、ひまし油、半乾性油の胡麻油、大豆油、菜種油などがありますがそれらは食用、石鹸、化粧品などに使われています。余談ですが…
最近の健康ブームでよく聞きますのがDHA(ドコサヘキサエン酸)で、DHAは体内に溜まるコレステロール量を下げ、心臓疾患のリスクを軽減させる効果があるようです。上記の亜麻仁油は体内に取り込まれると脂肪酸の一部がDHAに変化することが分かり健康食品として亜麻仁油を買われる方が増えたようです。
我が家でも女房がこのことを聞き付け、大瓶入りの亜麻仁油を買ってきて毎朝パンなどに塗って食べていますが、冷蔵庫に入れると固形になりパンに塗り付けるのに苦戦しています。効果のほどは秘密です。(笑)■18世紀の西洋では…
コークス製鉄法が発明されたことにより、原料となる石炭の埋蔵量が豊富なイギリスが牽引役となり産業革命が勃興します。コークス製鉄法により従来の鉄よりも強い鋼材が作れるようになって鉄橋、船、構造物への鋼材の用途が急速に拡大します。また繊維産業を中心として水力紡績機、蒸気機関が発明され多岐にわたる産業の原動力として活用されます。このころに繊維産業に不可欠となる化学産業も誕生し化学産業の一つとして塗料の開発も活発になり、油性塗料の水をハジク性質が鉄の保護に最適であったことから需要が急増します。■油性塗料
我が国では漆塗りが主体で油性塗料は余り使われていませんでしたが、古くから荏(えの)油を原料とした密陀僧(みつだそう)を用いた絵具がありました。密陀僧は各色顔料と混ぜ合わされて仏教壁画に多く使われています。奈良の法隆寺に置かれている玉虫厨子の須弥座絵が現存する最古の油性塗料の可能性があります。
絵具以外には傘、合羽、油紙に使われる程度でしたが、明治に入り先ほどの亜麻仁油に白色顔料の鉛白(2PbCO3Pb(OH)2)を練り込んだ固練り(かたねり)ペイントが登場します。
この固練り塗料こそが我が国の近代塗料の礎となったと言っても過言では無いでしょう。この塗料は堅練塗料とも書きますが読んで字のごとく粘度の高い状態ですので、塗装するときには亜麻仁油などの乾性油で塗りやすい状態に薄めて使いました。
当時は固練りペイントの希釈に使う乾性油の種類と希釈量、下塗り、中塗り、上塗り調合具合など塗料、塗装の微妙なノウハウが職人さんの固有技術であったようです。固練りペイントを当時の職人さんはペンキと呼んでいました。現在でも塗料を総称してペンキと呼ぶ方がいますが、ペンキは英語のPAINT、あるいはオダンダ語のPEKが語源だと言われているのですが、私はペイント→ペン→ペンキになったと考えています。固練りペイントで今回の話は終わりますが、次回は近代塗料の夜明け(その2)で現在の塗料の原型となる合成樹脂塗料についてお話しをいたします。次回もご期待ください!